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山と野沢菜と世界的劇団

大町市の中心市街地から北西に6キロ、高瀬渓谷近くの平上原地区、北アルプスの山々を望む田園風景の中に突然現れる巨大な倉庫群。これらは舞台装置や小道具、衣装など劇団四季所有の舞台美術品全てを保管する資料センターで、再演時にはこれらのメンテナンスを行い、日本全国の劇場に荷出ししている、劇団のベースキャンプだ。


その敷地内にあるのが「劇団四季 浅利慶太記念館」。2020年から名称を「劇団四季記念館」から「劇団四季 浅利慶太記念館」に変更してリニューアルオープンした。

開館は1995年、劇団のあゆみと創立者である浅利慶太の功績を舞台模型、小道具、台本や写真など様々な資料とともに展示紹介、演劇ファンはもちろんのこと、演劇とは縁遠い人にとってもかなり興味深い内容となっている。



そもそもなぜこのような地に世界的劇団の施設があるのか。

実はこれまでなんとなく抱いていた疑問を先延ばしにしながら、開館以来一度も訪ねたことがなかった。


劇団四季は1968年に市内に団員の集中稽古などを行った「四季山荘」を建設。

この稽古場の候補地を探していた際に、縁あって訪れた大町で劇団創設者の浅利慶太氏が、壮大な北アルプスの眺めと美しい自然環境に感動したことが影響したと言われる。


当初は軽井沢の別荘地に山荘を建てる予定だったところ、大町在住の知人に案内され、初めて市に来訪したのが1966年11月。

北アルプスに初冠雪があった翌朝のことを浅利氏自身はこう述懐している。


くろよんホテル(現 ANA ホリディ・インリゾート信濃大町くろよん)で仮眠をとり、ふと目を上げると、蓮華、北葛、爺ヶ岳の雄姿が目に入る。

幼い頃から慣れ親しんだ浅間山の光景とは又別の、強い迫力だった。

「山とはこれか!」その時の感動を今でも憶えている。(中略)

学者村のおばさんに振る舞われた浅漬の野沢菜の味。

「この土地に来れば、こんな美味いものが食べられる!」

この二つのショックが、四季大町山荘誕生の由来である。(中略)

それから30年。資料館、倉庫群も生まれ、大町市は四季のベースキャンプになった。


引用:広報おおまち 1997年11月号



浅利氏の生涯初演出(慶應高校時代)作品「わが心高原に」(作・ウィリアム・サローヤン、訳・加藤道夫)にこんな一節がある。


(前略) さよなら山々よ、聳(そび)ゆる雪の頂きよ、

さよなら溪谷よ、緑なす谷間よ、

さよなら森林よ、茂れる森よ、

さよなら渓流よ、音高く流れる水よ!

「この詩を読んだ瞬間、先生は詩に描かれた風景をこの地に見たのだと確信しました。」


そう語るのは当記念館の館長を勤める浅野貢一さん(71歳)。

大町市出身の浅野さんはお母様が初代「四季山荘」の管理人を務めていたことが縁で長年の間、劇団と深く関わることになる。45歳で勤めていた昭和電工からキャリアチェンジ(浅野さん曰く当時の流行り言葉で“とらばーゆ“)、以来25年間劇団の本社勤務や資料センター所長などを経て2016年より館長を務めている。



浅野さんの幼少時代に市内商店街の一角でお惣菜屋を営んでいたお母さんが作る家庭料理をたいそう気に入っていたという浅利氏。東京から時折り雑誌の切り抜きレシピを持ち込み、あれこれ注文して家庭の味と地酒に舌鼓を打っていたそう。


毎年11月中〜下旬ごろには漬かりたての野沢菜を、春には山葵の花を、車で代々木の稽古場に運んでから小分け袋詰めにし、都内の知人友人(その中には中曽根康弘元首相、成田豊・電通元社長、松田昌士・JR東日本元社長はじめ昭和の政財界、文化人の名前も)に配ったというエピソードも。

卓越した経営手腕と華麗な人脈、類まれな才能で日本のみならず世界の演劇シーンに革命をもたらした演出家は仕事に疲れると、真夜中でも長野まで車を走らせ、山の景色と水、郷土料理の味に癒され、晩年は年間のうち大町と東京とを半々で過ごしたという。


前述のホテルの窓から北アルプスを眺めてみる。

寒さは厳しいけれど、初冠雪と野沢菜が出来上がる季節が少しだけ待ち遠しい。



劇団四季 浅利慶太記念館

長野県大町市平1955-205

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